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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅

ここまでの歩み 編  – その13 –

難病のミトコンドリア病をもつ僕の娘、響の高校入学式から始めた本連載。その彼女がこれまでどのように生きてきたのか、まず知っていただきたい。生まれてから4歳近くでようやく立って歩き出すまでのことは、2005年7月4日~9月30日「東京新聞」「中日新聞」夕刊連載「歩くように 話すように 響くように」、それを書籍化した『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい』(2006年、集英社新書)にある。その翌年の同紙連載「続・歩くように 話すように 響くように」(2006年3月20日~6月10 日)全64回を、「ここまでの歩み編」としてここに再録する。その13は、新聞連載の第45~48 回(データ等は当時のものです)。


45
思い出を胸に

この連載の響の発熱の記事をきっかけに、響と同様のPDHC(ピルビン酸脱水素酵素)欠損症で一歳代の男児を亡くしたというOさんから、お見舞いのメールをいただいた。
「治ったら、響ちゃんと会いたい」と言って下さったので、ご招待。

Oさんの坊やは、生まれた時からアシドーシス(血液の酸性化)が強く救命治療の必要があり、Oさんがその胸に抱くことができたのは1か月近く経ってからだった。それからも炭酸水素ナトリウムによる血液の中和が必要で、その投薬が1日8回。投薬の間が空きすぎるとすぐに呼吸が停まってしまうので、Oさんはうとうとするくらいしかできないまま看病を続けた。何十日間も。

自分で、やりたかったのだと言う。看護師さんにはOさんが眠ってしまっていないか確認することだけをお願いした。夜半、Oさんが哺乳瓶で坊やに薬を与える態勢になるのを見てから、看護師さんはそっと病室の扉を閉めた。

「だけどあれは濃密な育児の時間だった。私がやらなきゃ死んじゃう、私がやるしかない、と精いっぱいだった。後悔はしないくらい、できた」

Oさんは振り返る。泣くまい、と堪える、僅かに震える瞼で。

その後、家に連れ帰れたときの、坊やの写真を見せて頂く。「この子どこが悪いの?」と思うようなかわいらしい笑みで、「薬を飲んでいないと呼吸が止まる」ほどの重大事とはうまく像が重ならない。
ということは、いま穏やかに普通に見える子でも、その笑顔の背後にはいつも危機がぴったり貼りついているのでもあり、それがミトコンドリア病というものなのだ。

主治医もスタッフも親切で懸命だった。「この子はどうなるの? この子に起こっていることを話して」と、Oさんは坊やを抱えて廊下で医師を追いかけるくらいに必死に、事態に向き合おうとしていた。「この子は生きられないのではないか?」。頭では理解していたが、気持ちがそう信じられなかった。

退院すると、坊やはびっくりするほどの発達を見せた。乳幼児にはときに、そういう不思議な力がある。

だが一歳をこえてしばらくして遂に発熱。時を置かずに病院に着いたがすでに危篤。呼びかけにも反応がなくなっていたが、アルカリ製剤で意識が戻る。

「それはほんとうに、子どもが『戻ってくる』という感じでした」

 

 

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第45回より再録


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