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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅


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おはなし

「わたしの なまえは ほりきりひびきです。4さいです。ようちえんは たのしかったです。おべんとうは ぜんぶ たべちゃったです。おともだちと あそんだ です。パパといっしょに いっちゃった です」

ある日、時々来て頂くベビーシッターの山下のり子さんが書き留めてくれた、その日響が話したこと。

これは、想像を超えた事態なのだ。
以前、響が言語を獲得することについて僕ら夫婦は悲観的だった。ところがいまや助詞が出現しているし、語彙が増えてきたので、彼女が意外にしっかりした記憶力を持っていることも分かってきた。砂場で遊んだことを話したいらしく「おしろつくったの」とか言うし、病院での痛い処置のことはいつまでも覚えていて、「おはないたいの」などと思い出したように言う。

そうした個々の発話ばかりではなく、言語の量がある閾値をこえると、その質が変わる。いま僕らはお話をしている、通じ合っているという、しっとりと濃い実感が生じる。

すごくうれしかった。胸のなかに満ちてくる、ひとと向き合っているという手応え。響も、自分も、存在が、ここに居ることがより確固としてくる感じ。

響を寝かしつけるとき、僕らはゆっくり話をする。

「今日幼稚園楽しかった?」
「たのしかった」
「誰と遊んだの?」
「あゆみせんせい」
「お友達は」
「おともだちあそんだ」
「そう。よかったねえ。何して遊んだ?」
「ブランコ」
「ブランコに乗ったの!?」
「おっこっちゃったの」
ああ、これで充分なんだ、という気がしないでもない。もちろん、さらに成長した響と、この世界について、いろいろな物語について、夢について語りあいたいものだ。でもいまはこれで充分。世界も、物語も夢も、響の言葉にはすでに在る。極小の、種の形で。予示の形で。

そうしていつの間にか、僕らは眠る。この世の中の競争とか、物欲とか名誉欲とか裏切りとか幻滅とか焦燥とかとは関係のない、平和な刻だ。

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第47回より再録


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