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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅


52

響と鏡

彼女は鏡が大好き、ということは以前にも書いたが、それにしてもその程度は尋常ではない。
僕らはこう解釈していた。響は手先指先などの微妙繊細な動きが不得意なのだが、それは神経発達の不全によるものではないか。響はもしかしたら、身体感覚が乏しく、自己の体勢の無意識的把握が、よくできていないのではないか。よく転ぶし。
だからその補助として、鏡で「見る」ということを彼女は身に付けた。

ご飯を食べるとき、コップでお茶を飲むときなどには、必ず「かがみ!」と要求する。
それは自分にとって難しい動作への、自分でする援護なのか。

けれどこのごろは、そこに確実に「おしゃれ」という要素が加わっている。新しい洋服を手にするとすぐさま鏡の前で身体に当てて「うふふ〜ん」という顔をしているし、帽子ならいろいろ、斜に被ったりおでこを出したり、試している。

幼稚園で避難訓練があったとき、みんな防災頭巾を被って列になって避難するのだが、響がいないので探したら、鏡の前で頭巾を被って悦に入っていたそうで、これには笑った。

そういう響は、言葉にはなっていなくとも「自分」ということを感じているのだろう。この世界に「自分」がいることを、彼女はどう、思い始めているのだろうか。

子どものころ、家に誰もいない午後、廊下のゆき当たりにあった鏡にふと自分が映っているのが目にとまり、「これが自分なんだ」「と、考えているこれが自分なんだ」「と、考えているのがこれまた自分……」と自分がどんどん膨らんで雲を抜け天を抜けどこまでも高く伸び上がってとまらない、そういうことがあった。
皆さんありませんか?

生きもののなかでもおそらく人間にしか起こらない、自己言及の無限ループ。そんな無辺の心細さとは無縁なんだろうな、まだ響は。でも響を見ていると、あまりに凝っと見ていると、「これが響なんだ」と、存在が改めて異化され突如浮き上がってくることがある。
むかし、母親の顔を見ていても、そういうふうになったことがあった。
自分のなかにある自分の外から、あるいは相手と自分を繋ぐ空間から、慣れることのない声が囁く。

いる、ということ。
鏡を見る、いまは無邪気な響も、いつか自意識を言語化して持つことになるだろう。
そこからは、複雑な思いも負の感情も、生まれてくる。
そこからがまた新たな工夫と、日々の挑戦だ。彼女にとっても、僕らにとっても。

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第52回より再録

―つづく―


ほりきり かずまさ はじめ編集者、つぎに教員になり、そうしながらも劇団「月夜果実店」で脚本を書き、演出をしてきた。いまや劇団はリモートで制作される空想のオペラ団・ラジオ団になっている。書いた本に『三〇代が読んだ「わだつみ」』『「30代後半」という病気』『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい』『なぜ友は死に 俺は生きたのか』など。

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