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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート その4 堀切和雅

この本がいまも生きているわけ

続き

言語の獲得にこだわったのは近しい者として自然なことでもあるだろう。が、人並みの発達を願ってというのとは微妙に違ってきていた。もちろん少しでも人並みに近く、健常に近くとは障碍の児の親はどこかでいつまでも思うことだろう。家族との生活の維持にとっては、本人にできることがどれだけあるかは実際重大な要素だ。

だけどほんとうのほんとうは、響の気持ちを、こころを知りたかった。その変化を、生きることの季節に応じてずっと、知っていきたかった。

爆発的な笑顔を振りまきながら、草原で転んで光の空を仰ぎながら、自分がうまく歩けないこと、上手に言えないこと、書けないことを、彼女はどう思っているのだろう。それでもいいの、わたしは、わたし。そう思っていてくれるだろうか。生きていく間何度でも、繰り返しそう感じてくれるだろうか。

考えてみるとこれは、健常者という枠で生きている僕と、おそらく皆さんとも全く同じ望みなのだろうと思う。そう、「基本的には変わらない」。

そうしたことをカウンセリングの場で田中先生と話しながら、書いて下さいと僕はお願いするようになった。障碍を持つ児のこころ。その大切なことにまっすぐ取り組む本はその当時見つからなかったから。
やがてクライアントが編集した心理臨床家の本、つまりこの本が生まれた。

『障碍の児のこころ』はその後品切れになり手に入りにくい状況になった。
一方、二〇〇七年の刊行から時が経ってもこの本の価値には変わりないことに気づかされていくことになる。「こういう本を求めていました」「子どもを育てるすべての現場に通じる」。そんな声が届いた。

そうしているうち、旧知の十時由紀子さんが小さな出版舎を始めたことを知る。再刊の提案に彼女はこう考えた。「ならば、当時と変わらぬ形で」。本文も装幀もそのままもう一度作り直されて、本は生き続けることになる。
出版の世界でも、そう多くあることではない。

娘が言葉を使うようになってゆく一方で、気がかりが深まったこと。リハビリテーションのため療育の場に行くと、より障碍の重い、話すことのできない子どもたちにも会う。もちろん病院でも、支援教育の場でも会う。その子たちの気持ちは、どんなふうなのだろう?

言葉の形はとらなくとも、こころはそれぞれにあるはず。一方、動けず発語もなく、意志表明がないように見える人の心の存在を疑う人もある。けれどもっともっと考えていくうちに思う。こころとは、ひとつづつ独立してありうるものなのか? むしろ心は、関係のなかにこそ生じるのではないか。この本のサブタイトルにもあるように、関係性のなかで育つのが心なのだから、それはいつも関係性の中でこそ、息吹を得る。

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