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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅

ここまでの歩み 編  – その6 –

難病のミトコンドリア病をもつ僕の娘、響の高校の入学式の光景から始めた連載「春待つ こころ」。その思春期のノートを記していく前に、彼女が人々の間で、これまでどのように生きてきたのか、知っていただきたい。

生まれてから4歳近くでようやく立って歩き出すまでのことは、『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい』(2006年、集英社新書)にある。2005年7月4日~9月30日「東京新聞」「中日新聞」夕刊連載「歩くように 話すように 響くように」をもとに書籍化した。

その翌年の同紙連載「続・歩くように 話すように 響くように」(2006年3月20日~6月10 日)全64回を、「ここまでの歩み編」としてここに再録する。
その6は、新聞連載の第17~20回。


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響の幼稚園を求めて 4

想像だけれど、幼児に「お受験」させたい親は、子どもをエリートコースに乗せたい、と思うのだろう。僕はそういう幼稚園から本当のエリートが生まれる、とは全然思わないが。

少なくとも、格差社会の中で、子どもに少しでも有利なチャンスを与え、できれば「上層」に行ってほしい。親として当然抱きうる考えではある。

ほかに、小学校やそれ以降も系列の学校に上がりやすいとか、その結果品のいい、しかも将来の交友関係として有利なお友達ができるから(上層なら上品、ということはもちろんないのだが、気持ちはわかる)とか、いろいろな理由があると思う。この新聞の読者の方にもそういう方はいらっしゃるだろうから、どうか、より深い理由があったら、教えて下さい。

その結果幼児が遠距離通園したりするのは、その人たちの選択・決心だろうから文句はないが、障碍者がある割合で必ずいるこの社会で、しかもまだそんなに競争はしなくていい幼児期に、障碍児を知らずにわが子が育つ、ということに、不安はないのだろうか?

まして、「子どもをエリートにしようと思っている」という仮説が当たっているとしたら、この社会の指導層になろうとしている人は、ますます、障碍者を含むいろいろな人について知っておかなければならないと思う。できれば幼いうちから、体感、思い出と共に。そうでない人は、地位が高くてもエリートとは呼べない。

学習院幼稚園は、今年はさらに事情が特殊なのだろう。「愛子さま」が入る年だから、お近づきになりたい人たちが殺到していると言われている。

しかし僕は、愛子さまこそ、いろいろな子に触れて欲しいと思う。
それは愛子さまにとって悪い経験ではないはずだ。

天皇制についての考えはどうあれ、愛子さまがやがて成人して、この国の模範を担う人間のひとりになることは間違いない。現皇室は障碍者施設の訪問とか、いろいろやっている。そういう歴史がある。

だったら愛子さまのいる学習院にも障碍児がいた方がいいのでは?
というのが僕の考え。

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第17回より再録


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