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春 待つ こころ 障碍の児の思春期、ノート 堀切和雅

ここまでの歩み 編  – その7 –

難病のミトコンドリア病をもつ僕の娘、響の高校の入学式の光景から始めた連載「春待つ こころ」。その思春期のノートを記していく前に、彼女が人々の間で、これまでどのように生きてきたのか、知っていただきたい。

生まれてから4歳近くでようやく立って歩き出すまでのことは、『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい』(2006年、集英社新書)にある。2005年7月4日~9月30日「東京新聞」「中日新聞」夕刊連載「歩くように 話すように 響くように」をもとに書籍化した。

その翌年の同紙連載「続・歩くように 話すように 響くように」(2006年3月20日~6月10 日)全64回を「ここまでの歩み編」としてここに再録する。今回は、その21~24。


21
さようなら小川さん

まだ生後6カ月の頃から、響と僕たちがお世話になったベビーシッター、小川直子さん。つまり病名が判る前から、響を知っている人。そして難病と知れても、怯むことなく、自分が風邪を引いてはいけないと通勤はマスクをして通した人。

「響ちゃんは愛おしかった。もともと子どもが好きで好きでたまらないし、成長するに連れて、私のことも理解してくれたし」

響は9ヶ月の時にミトコンドリア病と診断され、その翌月には、「生きているうちに」ということで、僕の妹たちの住むイギリスに旅することになる。

「あのころは、響ちゃんの命が長くないんじゃないかと聞いて、……帰りに、駅の公衆電話から会社にその日の業務を報告しながら、泣いてしまったこともあった」

「だけれどその後も発達してくれて、私に対してもわがままが出てきて、成長したんだな、と思った。彼女は彼女なりにせいいっぱい私に反抗して、私も叱りました。自分の子のように思っていたから」

遊びの展開も上手で、愛情に溢れた小川さんに、水曜日の4時間だけ響を預けることができて、僕らもその間にお惣菜を買ったり、銀行に行ったり、安心して用事を済ませることができた。
けれど昨年の12月、小川さんとはお別れ。小川さん、待望の妊娠のため。
実に4年近い、「もうひとりのお母さん」だった。

今日、小川さんにお電話してみた。6ヶ月目の安定期に入っていて、双子ちゃんだという。
「楽しみですね」と僕は言い、小川さんは響のその後をまっさきに訊ねる。
僕は、「あれから、ずいぶん喋るようになったんですよ」。

そこへちょうど響がやってきたので、「直ちゃんだよ」と言って受話器を渡す。
響は、「もしもしなおちゃん?」
また僕に電話を代わると、「いまの本当にひびちゃんですか!?」と小川さんは驚いている。
つい3カ月前には、そんなふうには喋っていなかったから。
小川さんは涙声。
「悪阻がひどくて苦しかったんですけど、今ので元気になっちゃった!」

響を、そんなふうに愛してくれる人が僕ら以外にもいるのが、とても嬉しい。

「続・歩くように 話すように 響くように」連載第21回より再録


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