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どら猫マリーのDV回想録 その13

カルトな私 partⅠ

今日も父親が取りつかれたように怒鳴り出した。
時々、こういうことがある。外の顔はとても良い方(のはず)なので、こういうことを話したとしてもなかなか信じてもらえないだろう。
母は母でキャラクターが強くて負けてはいないけれど、この結婚は失敗だったと、忍耐と我慢と諦念とでできていると自負し、今も耐え続けている。

良いときもあれば悪いときもあるのが夫婦。夫婦となった男と女は生きることで精一杯。その二人の親も、精一杯。その親たちだって精一杯。精一杯にジェンダーロールを演じ切る。その時、「よし」とされるものをやりきる。いいかげんなことだってあったさ。でも、ここぞという決め所で、常識や良識に照らし合わせて選択をして、そして精一杯になる。精一杯が精一杯を産んで、立派なモラハラな体質に育った男の子と、家父長制が見事に内面化された女の子は出会い、晴れて夫婦になった。
世間体だけは十分でたぶん、理想の夫婦に見えるし、どちらかと言えば良識的な家庭に私は産まれた。常識的で何不自由なかった。

  不調の母・不在の父

心の不調は体調不良へ。思い出す母はいつでも調子が悪かった。調子が悪いのを押して「母親」をやるものだから、もれなく、機嫌も悪かった。悪循環に重なる悪循環の中で、十二指腸潰瘍をこじらせ、一か月の入院生活をしたこともあった。私は祖父母宅に預けられ、車で小学校へ通った。下校すると病院へ。その前におやつを食べるのだが、お見舞いのたびに立ち寄ったコンビニが今もまだ営業している。祖父が買うおやつはいつも、店頭で売られているおでんで、そのいくつかを私の口に運んだ。

その後、回復はしたものの後遺症なのか何なのか、母は悪性貧血を患った。手術した胃腸は消化が上手くできず、いつも胃がもたれていた。何となくげっそりしている母。胃がもたれた際に背中を押すのは私の係だった。子宮筋腫も患い、上から触っても分かるくらいの大きさだった。ありとあらゆる健康食品に手を出し、リンパマッサージ、民間療法を訪ね習う。家事に書道の先生に……げっそりしている割に、いつも忙しそうだった。成績が良いのに女性ということを理由に4大進学をあきらめさせられた過去のある母は、移動時間を睡眠時間にして市民講座にも行っていた。

そしてそこに父親の存在はなかった。
潰瘍が、言わば破裂して、夜半に母がうなっていても私が震えていても、「恥ずかしいから救急車は呼ぶな」と言い、朝になって母親がいなくなっていて、思わず涙ぐむ私には、「お前までやめてくれよ」と、父は言っただけだった。あの時の緊急手術は、途中で麻酔が切れ、看護師が4人で母の手足を抑えて終えたことは後から聞いた。私はその時6歳だった。
いっそ、父が飲んだくれの酔っ払いだったらよかった。父は立派な公務員だった。私たちの生活は常に、安全で安定していた。

 

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