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どら猫マリーのDV回想録 その13

カルトな私 partⅠ

何より、私はその活動には興味があったし、酒なしで集える空間がありがたかった。
アカペラサークルも、テレビ番組が流行り、卒業生が有名人になってからは新入生が激増。いつの間にかマンモスサークルになってしまい、居場所がなかった。気の合う者だけでたまに音を合わせ、発表する場所があれば発表する程度になっていた。

大学生の中では、(無駄に)忙しい方だった、留学も控えていた私は、時々その「ちょぼら」に参加した。みんなで作る大鍋料理は楽しかった。統一原理に没頭するような感じではなかった。それはサークル活動の理念に過ぎず、お互いの専攻分野に基づいた勉強会もあった。

実際、「より大きな善」を目指し、卒業生たちは教員になり、行政の人となり、それぞれの世界に羽ばたいて行った。私の話を聞きながら眠る人は無論、いなかった。「渋谷駅前のごみ拾い行こうよ」と言われれば行ったし、「純潔を守ろうっていうデモに行かない?」と言われれば丁重にお断りした。

私が誘われるのは主に大きなイベントだったので、教会の有名人とされるような人も来ていた。教会にしろ、原理研にしろ、当事者ではない「お客さん」として、私は参加していた。
私は、その有名な人(統一教会の日本支部の学生分野の会長、とか)から、ある種の期待の――世間の偏見にさらされている集団にやってきた新たな仲間を歓迎するような――意味合いをもって声を掛けられたが、何の感慨もなかった。

  留学と下宿生活

さて私は韓国に留学し、結果、教会は身近なものになってしまった。統一教会の教祖は、よく考えれば韓国の人だった。講義の内容とその質問と応答と。これを考えた人がこの教祖だよと言われてもピンと来なかった。「文鮮明先生は、人類の救世主です。」という、教会が要とするところがよくわかっていなかったのだと思う。ただ、センターで奉仕する信者の皆さんはみなさん、これまで会ったことのない、柔和で世話好きで、優しい方たちばかりだったので、いつか、こういう親切なおじさん、おばさんになりたいなと思うことはあった。

留学先を韓国に決めたのも、たまたま大学で募集する交換留学の枠に空きがあったからだった。英語とフランス語に力を注いでいたけれど、帰国子女の学生にかなうはずもなく、国費留学のヨーロッパ枠は熾烈な競争だった。かといって、英語学習に焦点を当ててフィリピンに行くという勇気もなく……。しかしこのまま、高校生に毛が生えた程度の変化しかないキャンパスライフ、何かしら色を付けたいではないか。モラトリアムといえばそれまでだが、大学生になったら留学する、第二言語を身に着けるのだという、高校からの固い意志はあった。

基礎や一般教養の授業数ががくんと減った2年生くらいの頃、周囲では、「学生のころにしかできないことをやっておきたい」というくらいの理由で、「第二外国語基礎」を改めて習う同級生や先輩がいた。イクスチェンジといって留学生と日本語を交換するような交流もあった。CMでながれているように駅前留学なんてするくらいなら、キャンパス内で勉強しよう、そのほうが合理的で、そうあるべきだと思った。

 

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