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どら猫マリーのDV回想録 その8

マリーの逃亡劇 “アジア女性の連帯” 編

でもどうだろう。そんな娘に母がまず手渡したのは観劇のチケット。明日なの!これはもう運命ね。しかも抽選で当たったのよ!と。三宅裕司率いる熱海五郎一座の喜劇だった。私は、久しぶりの都内に圧倒されながらも、罪悪感皆無で大爆笑した。

1歳と3歳の子どもの育児だけの日々。夫はあんな感じ。羽を伸ばすとはこのことだった。
私はその日を境に生き方を変えた。何か、模範を追求し、まねるのはもうよそう。有名な歌手のセリフにあったような。世間との約束はもういらない、だか何だか。有名な人がそれを語れば名言になる。私のような一般人がそれをうそぶけば、ただの無責任になるのだけれど。

英気を養った私は再び、親の金で韓国へ。ソウルのシェルターを経て、田舎のシェルターへ。そして自宅マンションに戻り、子どもたちを抱えてまた逃亡した。タクシーに乗って、1泊は緊急避難受け入れのシェルターへ。そして、その地域のシェルターへ。

シェルターからシェルターへのタクシー移動。ふと、ポーがそれはそれは大きなダンゴムシをつまんでいて、珍客の同行に私は笑った。私たちの人生の節目に、素晴らしい友を得た。そうなのだ。どんな時も地球はうごめき、回っているのだ!

とはいえ、田舎のシェルターはソウルのそれとは似て非なるものだった。
まず、物資が少ない。ソウルのシェルターには所狭しと積み上げられていたおむつ。そんなものは一つもなく、携帯していないことをとがめられた。それなりに準備して出てこい、というのだ。あの状況でどうやって…… 首都圏と辺境と、税収に基づくものなのか、寄付によるものなのか、経済基盤の明らかな差が伺われた。

そこに滞在していたのは、カンボジア人の母親とその子ども、ベトナム人の母親とその子ども、ベトナム人妻一人、出産後間もないベトナム人とその子どもが一人… だったように思う。夜中に突然保護され、またいなくなった人物もいた。

そこはどこかの教会で、半分が、礼拝が行われる大きな講堂があり、半分がシェルター、二階部分が牧師の私邸という構造で、だいぶ広かったように思う。ウッドデッキがあり、大きな飼い犬がいて、子どもたちも私もうれしかった。吹き抜けのようになったキッチンは天井まで窓。採光を考えてのことだろう。とにかくまぶしいくらいに明るい場所だった。その明るさとは裏腹に自由な外出も通話も許されていなかった。

そこがどこなのかもわからなかった、住所非公開の施設だからだろう。だが、ここかしこに貼られたカレンダーに、この教会の名前と住所と電話番号がどーんと記載されていることに、ある日気づいた。おそらく広報用なのだろう。これをもし、誰かが漏洩すればすぐ、所在が明らかになってしまう。こういった詰めの甘さが韓国ぽい(失礼!)。私は少し、にやけてしまった。

インターネットも禁止されていたが、世話人がパスワードを入れるたびに数字ばかりだったのが気になり目を凝らしてみてみたが、どうやらこの電話番号らしい。

「ちょっと!何みてるの!」
世話人の一人がこらこらこらと間に入った。事務所をじろじろ見ないでくださいということだ。これは失敬。私はそんなに品のない人間ではないつもりだが、ここは生きながらえなければならない。つい、色々なことにがめつくなってしまう。

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