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どら猫マリーのDV回想録 その8

マリーの逃亡劇 “アジア女性の連帯” 編

桶で体を洗うことにも慣れ――つまり桶を複数使用し、ひとつを使っている間にもう一つに水をためると良い――、夜も眠れる環境が整った頃、私の今後を決める面接の日取りも整った。快適になったころ、退所が決まった。

夫の行いは執拗かつ、惨忍。ポーの成育歴から日本への帰国が妥当とのことで、正式に帰国が決まった。

「タオルにライターで火をつけ、“俺の怒りを見せてやる”と言ったって陳述書にあるけど、これ、引火するものがそばになかったから無事なんじゃないの?」と牧師さんがつぶやいたとき、自分の身に起きていたことの重大さに、改めて気が付く私がいた。

タクシーに乗るとき、カンボジア人女性が見送ってくれた。少し寂しかった。
連絡先を交換したかったけれど、自由になる連絡先をお互い持っていなかった。
携帯電話の使用は禁止されていた。「慣れるものだよね」とスマホ依存をお互い笑った。ソウルのシェルターはそこまで厳しくなかったのに。通話で用いられるSIMカードは回収されるが、Wi-Fiの使用は大目に見られ、本体を携帯することは許されていた。恐らく、シェルターごとに事情は大きく異なるのだろう。

最初の駄菓子や日々のお礼がしたかった。洋服はあげてしまったし、買い物は許されていない。少ない荷物をひっくり返すと日本から持ってきていた虫よけスプレーやバンドエード等が出てきた。初日にスプレーしておけばよかった。エリーの顔の小さな赤みに触れる。「これ、効くよ。あなただけが使って」というと、察したように、「分かった」と快く受け取ってくれた。使いかけの、日本のドラッグストアならどこでも見かけるものだ。

暑い。タクシーの中から街が見えた。

私の出産した病院が意外と近そうなことも分かった。ということは、あのショッピングモールは、夫とよく行ったところだろう。
高架道路なので一種運だけ全体が見渡せるようなタイミングがあった。

「パン詰め合わせだって。7個で500円。おー、いいねー。生クリーム入ってるやつだ。おまえ、好きそう」

と、夫はかごにいれてくれた。ポーは、かごのなかにすっぽりと収まっていた。エリーはおなかの中にいた。私たちは、普通の家族だったはずだった。あのベトナム人女性たちも。カンボジア女性たちも、そしてソウルで出会った女性たちも。

暑い日の青空はどこか灰色がかって見えるのは私だけだろうか。
大気の不安定さのためだろうか。それともまぶしすぎるからだろうか。

とにかく暑くて暑くて、物資もなくて、空港では私たちの外見がやたら目立ってしまっているようで恥ずかしかった。

汗だく。今思えば、空港の隣が大手のスーパーマーケットだったのだから、早めに出て立ち寄って、Tシャツの1枚でも買えばよかった。

でも勇気がなかった。

ベビーカーもなかったし、抱っこひももなかった。片手には荷物もあったし。いつも鞄を持ってくれ、片手でポーを抱いてくれていた夫はいなかった。まぶしい。暑い。不釣り合いなほどかぐわしい香水の香りは、すぐ目の前にある免税品店からだろう。世界有数のハイブランドたちが目の前にある。

空調の効いた税関。
でも実は、緊張の瞬間だった。緊張していなければならなかった。
この瞬間に親権を振りかざして、出国停止を申し出て飛行機から降ろされた母子も少なくはないのだ。でもとりあえず、この向こうに行ければ、一安心だ。パスポートとチケットがなければ入れないところへ、とりあえず行ける。夫は容易には近づけなくなるわけだ。

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